都会のバックアップとしての「地方」について難しく考えてはみたけれど
さて、当初のほほんと趣味の音楽だけを批評するブログをやるつもりだった私が、地方とは何ぞやみたい話をしているのはどういうわけか。
話が段々難しくなってきたが、がんばってついていくことにする。以前、高校時代に「ファスト風土化する社会」という本を課題図書として読まされたことがある。
引っ越しのどさくさで無くしてしまったが、あの本が私が地方のあり方について「ちょっと違う?」と思い始めたきっかけだ。地方出身、在住者は必読!
その本の中でも、イオンのような郊外型のチェーン店が全国に進出したせいで地方の風景が画一化され、個性を失い、衰退するということが論じられていた。
当時高校生だった私は、それまで地元にできたイオンに無邪気に喜んでいたが、冷や水を浴びせられたわけだ。
「★★県の○○市と××市と△△郡くっつけりゃ、政令指定都市なれんじゃね?」をマジでやった都市を指すのだ。
氏が批判する地方というのは、そうした人口20万~70万?ぐらいの中途半端な地方都市であり、私が小学生時代妄想した小学生時代の私は大きな勘違いをしていた。政令指定都市が都会になるんじゃない、都会が政令指定都市になるのだ。
さて、都会のバックアップたるべき地方は、どうあるべきか。
ちょっと唐突だが、ここで平安時代の「都市」の人々が、地方の人間をどう見ていたか、書いておく。
1183年、平家を倒すべく今でいう長野から上洛してきた源(木曽)義仲を、京の公家は「イケメンだけど、言葉遣いおかしいし、振る舞いも下品。」と評している。
補足すると、義仲は父の代まで京育ちだし、当時の武士(しかも源氏の御曹司)は知識階級で一応エリートだ。それでこの扱いだ。
それほど都市と地方は文化的に違っていた。また明治維新時にも、薩摩人と東京人には言葉の壁があったそうだ。
今、東京の安倍首相が、長野や鹿児島の有力者と話しても、言葉は普通に通じるだろう。明治以降、特に戦後、日本は良くも悪くも均一化したのだ。
それこそ従来の地方都市レベルでは、たとえば明治維新レベルの大改革、そこまで行かずとも、大瀧詠一(岩手出身)らによる日本語ロックのような革新を起こす人材が現れるような辺境たりえなくなっている。
それを発揮しているのが、人口20万未満の地方都市ではないか。
じゃあ、gudachan氏の言うように、20万未満の片田舎がそうなれるんだろうか。
ぶっちゃけ素直にそう思えないのは、実は私が今住んでいる街が、その人口20万未満の都市だからだ。
私のアンテナがクソ低いせいもあるが、この街から新しいものが生まれてくるとは、ちょっと思えない。普通に郊外型のショッピングセンターはあるし(しょぼいけど)、個性のある独自の何かがあるとも思えない。
これ以上グダグダ考えていてもいい記事が書けるとも思えないので、明日(もう今日だけど)は自分の住んでる街に出かけてみようかなぁ。