虎尾伴内の手帳 ~真夏の顔を持つ男~

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田舎と田舎者の存在意義って一体何なのか

田舎と田舎者の存在意義って、いったい何だろう。

gudachan.hatenablog.com

自分は日本史が好きで(詳しいとは言ってない)、歴史的な視点から見ると、時代の変わり目にはいつも、地方(辺境)から出てきた人間の活躍があると思う。

その先駆けは、平将門が関東で起こした乱だろう。彼は、辺境の地だった関東に新たな国を築いて、自ら「新皇」と名乗って、一時的に独立国家を作った。

その後平安から鎌倉への過渡期に、木曽(長野県)の木曽義仲など地方の武士が続々挙兵した。最終的に勝利した源頼朝が幕府を開く鎌倉だって当時はド田舎だ。

その鎌倉幕府が滅ぶきっかけは、河内(大阪府)の楠木正成が幕府相手に大勝利を収めたことだし、室町幕府を作った足利尊氏の本拠地は名前の通り栃木県足利市だ。

ご存じ戦国の三英傑である信長、秀吉、家康は愛知県出身だし、その家康が作った江戸幕府をつぶして新政府を作ったのは薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)の人々だ。

結局、時代を変えるのは田舎者、辺境の人間なのだ。

言い方を変えれば、田舎は都会(中央)のシステムが腐敗、疲弊したときのバックアップ系として存在しているといっていいだろう。

コンピュータシステムに詳しい人なら、バックアップ系のないシステムがどれだけ危険か、よくわかるのではないか。

前置きが長くなってしまったが、この記事にある通り、田舎には確かに依然として高速交通網さえあれば、衰退をどうにかできるというような一種の信仰が存在する。

それはよくわかるが、どうも私には田舎は田舎らしく、農村風景をアピールしていれば良い、という風にしか読むことができず、田舎者たる自分としては、ちょっと釈然としない気分になった。

かつてヨーロッパで金持ちの旅行ブームが起きたときに、アフリカの人たちが収入ほしさに、裸になって踊るなどして、わざと未開の部族を演じて見せたり、民芸品を作って売ったりするのと同じではないのか。

何でも都会レベルにせよ、というのもおかしいが、

「青森ごときにこんな無駄な道路作るなら環八をもう一車線増やしてくれ!」とか「どうでもいい新青森駅作るカネがあったらオンボロの飯田橋駅を新しくしてくれ」

といういう風に、田舎へのインフラ投資、整備をケチるということは、最終的にはバックアップとしての歴史的な役割をはたしてきた田舎、辺境が存在できなくなってしまうということにはならないか。

(※ただ、辺境、田舎のレベルについては自分の中でも迷いがあって、普通の地方都市を辺境とするか、離島とか山村ぐらい都会と隔絶してないと辺境と言わないのかで、話は変わってくると思うけど。)

 

田舎暮らしの本 2015年 11 月号 [雑誌]

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