虎尾伴内の手帳 ~真夏の顔を持つ男~

ただしBREEZEは鼻から通り抜ける

ルワンダ中央銀行総裁日記を読んだ

さて、今回紹介する「ルワンダ中央銀行総裁日記」は、今からちょうど50年前の1965年から6年間、ルワンダ中央銀行で総裁を務めた日本人、服部 正也の記録である。

ルワンダ中央銀行総裁日記 [増補版] (中公新書)

ルワンダ中央銀行総裁日記 [増補版] (中公新書)

 

服部は戦後日本銀行の職員として、日本経済の発展に尽力したのち、1965年にIMF(国際通貨基金)の依頼を受け、空席となっているルワンダ中央銀行の総裁になった。

当時のルワンダ中央銀行といえば

・帳簿が間違いだらけ(は?)

・副総裁以下職員がまったく銀行業務をしらない(へ?)

・理事会が大蔵大臣の判断を仰ぐ(これ、中央銀行が絶対にやってはいけないこと。なお大蔵大臣は「お前ら仕事せえ!」と一喝した模様。)

とひどいありさま。

さらに頼みの外国人顧問ははなからルワンダ人を馬鹿にしており、まともに仕事をする気なし。

しかし服部は

・帳簿が信頼できないなら自分で帳簿をつければいいじゃん

・信頼できる外国人顧問いないなら探したらええがな

・職員がアホなら鍛えたらいいやんけ!

とばかりに急速に銀行を立て直し、当面の大課題「通貨の切り下げ」に臨むこととなる。

当時、ルワンダには為替レートが建前のもの(政府公式のレート)と、本音のもの(市場でのレート)の2種類あった。このため経済が混乱し、貿易にも支障が出ていたため、服部は中央銀行のスタッフと共に多くの障害を乗り越え、通貨切り下げを断行した。

その後も服部は努力を続け、最終的には1971年の退任までに、国の財政をどうにか黒字にまで持って行っている。

なお、服部退任後のルワンダだが、服部が立て直した経済も軌道に乗り、アフリカの優等生として高い評価を受けることになる。1980年代までは。

その後は1994年に、100日で100万人虐殺されるという「ルワンダ虐殺」によって国は一気に大混乱に陥ることとなる。

ルワンダ - Wikipedia

しかし、この事件でルワンダを逃げ出した人々の一部が高い教育を受け本国に戻ってきたこともあり、経済は大きく発展、ドル建てでのGDPは2015年時点で虐殺発生年の1994年の8倍もの水準にまで達している。

また、服部自身のその後についても触れておくと、総裁退任後は日本銀行に戻って、ニクソンショックの対応に追われた後、世界銀行に移り、最終的には副総裁にまで上り詰めている。

本当に服部すごい。すごすぎる。ちょっと経済の関係の専門用語などあって難しいけど、これドラマ化したら超面白いと思う。黒人キャスト足りなくなっちゃって稲川素子事務所涙目だけども。

なお、服部氏のちょっとアレな面(ダークサイドですね)にきりこんだまとめもあるんで、そちらもどうぞ。

togetter.com

さて、服部といえばユニコーンの名曲に「服部」という曲があるんだけど、あの曲に出てくる「服部」っていうのは服部正也とは特に関係なくて、あれはメンバーの一人の出身地である山形県の服部

 

・・・明日(つーか今日ね)友達の結婚式なんで、この辺で失礼しまーす。